私たちの責任とは?

最近、中谷剛さんの「ホロコーストを次世代に伝える」(岩波ブックレット)を読んで、数年前に実際に現地を訪れ、アウシュビッツ博物館で日本人唯一のガイドである中谷さんに案内してもらったことを思いだした。

今を生きる世代に「過去の戦争自体の責任は無くても、繰り返さないという責任はある」というメッセージは、訪問当時に中谷さんから直接聞いたけど、この著作で改めて文字で読み返し、心に深く刻みました。

そして幸運なことに、今日の夕方に実施された広島平和記念資料館主催のオンラインイベントで、中谷さんのトークセッションを聞くことができた。(現地は朝の830だったそう)まさに今、現地はロシアのウクライナ侵攻の真っただ中で、地勢的にも関係の深いポーランドはこの問題を自分ゴトとして捉え、多くの人がウクライナから流入してくる人たちをサポートしたり、衣食住を提供したりしているそう。それも非常にポジティブでイキイキと。日本からでは容易に想像できない、ヨーロッパの厳しく複雑な歴史が多くの人に無意識に刻まれ、決して他人事ではない、と思わせるのだろうか。

もし、また以前のように海外渡航が可能な時期がきたら、その時は思い切ってまたポーランドに飛び、アウシュビッツ博物館を訪れたい。

「通俗道徳」について

最近気になっている言葉に「通俗道徳」というのがある。
仕事で人権啓発に携わる中で、1つの大きな気付きが

「明治時代ってやばい」

っという単純な驚きであった。高校までの日本史の授業では、文明開化やら近代化の始まり、といったポジティブな側面しか学ばなかった、と記憶しているが、その一方で「無らい県運動」といったいわゆるマイノリティを社会から排除して、一般の目には触れないようにしよう、という動きがあったことはなかなか学ぶ機会がないのでは、と思う。この運動は、行政単位としての「県」それぞれが、自分たちのエリアからはハンセン病(むかしの差別的な表記では「らい病」)の患者を無くす、ということではあったが、決して治療や福祉を充実させてケアを尽くすことで患者の数を減らしていく、ということではない。単に自分のエリアには居住しないようにする、ということでその結果、一般の生活圏とは隔絶された場所に療養所などへ強制的に患者を収容してしまう、というものであった。ハンセン病だけでなく、他の疾病や障害、また部落差別問題でも同様の現象は見られてきた。

こうした明治時代の裏の顔に興味があり、手に取ったのが
「生きづらい明治社会ー不安と競争の時代」松沢裕作(2018 岩波ジュニア新書)である。その中で出会ったのが、歴史学者 安丸良夫さんが提唱した『通俗道徳』という言葉である。「勤勉に働くこと」「倹約をすること」「親孝行すること」といった、ごく普通の人々が『良い行い』考えることを指しますが、問題はその影響です。
貧乏なのは勤勉に働かないからだ、いざというときに困るのは倹約していないからだ、家庭が不和なのは親孝行してこなかったからだ、という風に自己責任論的な考え方になりがちで、しかもこういった視点が明治以降の日本では非常に強い影響を持つ、という分析を目にしたことで、今の日本の社会が抱える問題の根源の1つに「通俗道徳」の考え方が影響しているのでは、と考えるに至った次第なのである。

ただ、かくいう私もこの「通俗道徳」の考えに非常に大きな影響を受けていることは正直否めない。「努力してないんだから成果が出るわけない」なんてついつい考えてしまう傾向が自分にもあることに時々ドキッとする。もちろん、何事かを成し遂げるのに努力は必要だけど、「成功していない=努力していない」と決めつけてしまうのはまた別の話ではあることをついつい看過してしまう。

そんな自分の思考過程にも、昭和50年代に習った小学校での道徳の授業を始めとした教育の影響が色濃く残っており、ひいては「通俗道徳」的な考え方をしてしまいがちであることに注意して、今後もさまざまな探究を続けていきたい。

「巣ごもり」に関する微妙な感覚

 「コロナ禍」と言われて久しい。気付けばもう2年が経った。それまでは花粉症はおろか、風邪などにも無縁だった自分はマスク嫌悪派(顔が何かで覆われているのがとにかく不快)であったのが、最近では外出時にはマスクを着けるのがもう無意識の習慣にもなっている。昔、個人の英会話レッスンで週一会っていたメキシコ系アメリカ人の講師も「すごい沢山の人がマスクして電車に乗っているのは気持ち悪い」と言われて非常に共感してたけど、最近ではマスク無しの乗客のほうがついつい気になってしまう。慣れって怖い。

 そんな中、コロナ禍でいつまでも慣れないことがある。それはメディアなどで使われる「巣ごもり」という言葉だ。テレビの情報番組や新聞記事などで「巣ごもり消費」なんて言葉がちらほら出てくるたびに『そんなのん気な気持ちで過ごしている人ばかりではないのでは?』とついつい気になってしまう。個人的な調べでの実感知ではあるけど、一般の広告(新聞やテレビ)ではほとんど見受けられず、ネット系の通販のハッシュタグや消費動向分析の記事などで若干見かけるぐらいではないかな、と感じている。

 実際に自分の仕事(表現や企画に関するアドバイスなど)でも、もしこの言葉を使っているコンテンツがあれば「慎重に検討すべき言葉ですよ」と指摘する気満々なのだけど、実際にはその機会は無かった。やはり多くの人が、少なくとも広告宣伝PRでは何となく使いにくい言葉、として認識しているのだろう。そんな中「今、この商品が注目です」などと無邪気(に見える感じ)で紹介するテレビ番組を見ると、ちょっと複雑な感覚になることが多い。もちろん、誰かが購買意欲を刺激しないと経済は回っていかないからそんなに気にすることでもないかもしれないし、公に問題提起する気もない。「コトバ狩り」をしたいわけでもない。

 結局はこの言葉が気になる自分って何?というところに行きつく。「巣ごもり消費」の話題を紹介するキャスターや実際のユーザーが何となく無邪気に思えるのも、結局それが気になる自分ってどういう視点なのか?ということを先ず考える必要があるだろう。職業柄、「誰も傷つけない」「全方位的な配慮のある」表現や言い回しをついつい模索してしまうのだけど、一方でそれはコミュニケーションが表面化することにも繋がる危険性を孕んでいる。そして繰り返しになるけど、「コトバ狩り」になってしまうことは避けたい。

 コロナ禍で家で過ごすことを強制される、ということをポジティブに捉えるのが「巣ごもり」だとして、実際にポジティブになれる人もいるだろう。でもずーっと外出や他人との交流を制限されて、場合によっては仕事や勉学の機会を奪われてしまい、経済的・精神的な余裕をなくしがちな人も少なく無いこと、どこかで気付くべきだ、という気持ちが、自分として「コトバ狩り」が気にする一つの大きな理由になっている、ということなのではないか、とここまで書いてようやく自らの思考が何となく整理できるようになってきた。書くことってやはり凄いな、と感じている。