「コロナ禍」と言われて久しい。気付けばもう2年が経った。それまでは花粉症はおろか、風邪などにも無縁だった自分はマスク嫌悪派(顔が何かで覆われているのがとにかく不快)であったのが、最近では外出時にはマスクを着けるのがもう無意識の習慣にもなっている。昔、個人の英会話レッスンで週一会っていたメキシコ系アメリカ人の講師も「すごい沢山の人がマスクして電車に乗っているのは気持ち悪い」と言われて非常に共感してたけど、最近ではマスク無しの乗客のほうがついつい気になってしまう。慣れって怖い。
そんな中、コロナ禍でいつまでも慣れないことがある。それはメディアなどで使われる「巣ごもり」という言葉だ。テレビの情報番組や新聞記事などで「巣ごもり消費」なんて言葉がちらほら出てくるたびに『そんなのん気な気持ちで過ごしている人ばかりではないのでは?』とついつい気になってしまう。個人的な調べでの実感知ではあるけど、一般の広告(新聞やテレビ)ではほとんど見受けられず、ネット系の通販のハッシュタグや消費動向分析の記事などで若干見かけるぐらいではないかな、と感じている。
実際に自分の仕事(表現や企画に関するアドバイスなど)でも、もしこの言葉を使っているコンテンツがあれば「慎重に検討すべき言葉ですよ」と指摘する気満々なのだけど、実際にはその機会は無かった。やはり多くの人が、少なくとも広告宣伝PRでは何となく使いにくい言葉、として認識しているのだろう。そんな中「今、この商品が注目です」などと無邪気(に見える感じ)で紹介するテレビ番組を見ると、ちょっと複雑な感覚になることが多い。もちろん、誰かが購買意欲を刺激しないと経済は回っていかないからそんなに気にすることでもないかもしれないし、公に問題提起する気もない。「コトバ狩り」をしたいわけでもない。
結局はこの言葉が気になる自分って何?というところに行きつく。「巣ごもり消費」の話題を紹介するキャスターや実際のユーザーが何となく無邪気に思えるのも、結局それが気になる自分ってどういう視点なのか?ということを先ず考える必要があるだろう。職業柄、「誰も傷つけない」「全方位的な配慮のある」表現や言い回しをついつい模索してしまうのだけど、一方でそれはコミュニケーションが表面化することにも繋がる危険性を孕んでいる。そして繰り返しになるけど、「コトバ狩り」になってしまうことは避けたい。
コロナ禍で家で過ごすことを強制される、ということをポジティブに捉えるのが「巣ごもり」だとして、実際にポジティブになれる人もいるだろう。でもずーっと外出や他人との交流を制限されて、場合によっては仕事や勉学の機会を奪われてしまい、経済的・精神的な余裕をなくしがちな人も少なく無いこと、どこかで気付くべきだ、という気持ちが、自分として「コトバ狩り」が気にする一つの大きな理由になっている、ということなのではないか、とここまで書いてようやく自らの思考が何となく整理できるようになってきた。書くことってやはり凄いな、と感じている。