「通俗道徳」について

最近気になっている言葉に「通俗道徳」というのがある。
仕事で人権啓発に携わる中で、1つの大きな気付きが

「明治時代ってやばい」

っという単純な驚きであった。高校までの日本史の授業では、文明開化やら近代化の始まり、といったポジティブな側面しか学ばなかった、と記憶しているが、その一方で「無らい県運動」といったいわゆるマイノリティを社会から排除して、一般の目には触れないようにしよう、という動きがあったことはなかなか学ぶ機会がないのでは、と思う。この運動は、行政単位としての「県」それぞれが、自分たちのエリアからはハンセン病(むかしの差別的な表記では「らい病」)の患者を無くす、ということではあったが、決して治療や福祉を充実させてケアを尽くすことで患者の数を減らしていく、ということではない。単に自分のエリアには居住しないようにする、ということでその結果、一般の生活圏とは隔絶された場所に療養所などへ強制的に患者を収容してしまう、というものであった。ハンセン病だけでなく、他の疾病や障害、また部落差別問題でも同様の現象は見られてきた。

こうした明治時代の裏の顔に興味があり、手に取ったのが
「生きづらい明治社会ー不安と競争の時代」松沢裕作(2018 岩波ジュニア新書)である。その中で出会ったのが、歴史学者 安丸良夫さんが提唱した『通俗道徳』という言葉である。「勤勉に働くこと」「倹約をすること」「親孝行すること」といった、ごく普通の人々が『良い行い』考えることを指しますが、問題はその影響です。
貧乏なのは勤勉に働かないからだ、いざというときに困るのは倹約していないからだ、家庭が不和なのは親孝行してこなかったからだ、という風に自己責任論的な考え方になりがちで、しかもこういった視点が明治以降の日本では非常に強い影響を持つ、という分析を目にしたことで、今の日本の社会が抱える問題の根源の1つに「通俗道徳」の考え方が影響しているのでは、と考えるに至った次第なのである。

ただ、かくいう私もこの「通俗道徳」の考えに非常に大きな影響を受けていることは正直否めない。「努力してないんだから成果が出るわけない」なんてついつい考えてしまう傾向が自分にもあることに時々ドキッとする。もちろん、何事かを成し遂げるのに努力は必要だけど、「成功していない=努力していない」と決めつけてしまうのはまた別の話ではあることをついつい看過してしまう。

そんな自分の思考過程にも、昭和50年代に習った小学校での道徳の授業を始めとした教育の影響が色濃く残っており、ひいては「通俗道徳」的な考え方をしてしまいがちであることに注意して、今後もさまざまな探究を続けていきたい。

投稿者: Andyasakusa(he/him)

都内在住の40代の会社員 日ごろからDiversityや人権問題を自分なりに勉強しています。LGBT(G)当事者。 キャリアを模索して社会人大学院にも在学中。(2022年3月終了を目指しています。) その他、興味関心は広く浅く、お酒(特にVodka)、何とか続けている英会話や細々と続けている登山・トレッキング(但し低山や里山中心)、読書や音楽のことなども幅広く書いていく予定です。住んでもうすぐ20年になる、愛してやまない浅草近辺の呑み歩きの話題なども。

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